2段に作られた前面は、石組みも特に変わった様子も無く、なんとなく沖縄本島の墓に近い雰囲気を感じます。
これも残念ながら草が生い茂った状態で、細部まで観察することが出来ませんでしたが、綺麗に整備された状態では、きっと荘厳な雰囲気があったと思われます。
この付近は、多分当初は公園のように整備されていたと思いますが、今はそこも草に覆われかけていました…。
説明版に書かれている内容
15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。 墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。 この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。 外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。 内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨カメの安置所です。仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入り口になっており、かつては観音開きの扉がついていたことを示す上下に各2箇所ずつとどめています。宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、また島内においては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られています。
(2006年10月)
関連情報: 宮古島